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2010年6月30日

786 国家の未来など憂うることなかれ

 「非欧米6カ国への当面の投資魅力で、日本は『既存企業の買収』および『ベンチャーへの出資』とも最下位」、また「国際競争力で長年1位の座を保ってきた米国を今年はシンガポール(昨年3位)が抜いて1位となり、昨年17位の日本は今年27位に転落」とのこと。共に信用を誇る国際機関の最近の調査結果。このようにわが国のとくに経済の評価は低下する一方、マスコミでは、有象無象の評論家や学者たちが競って日本の未来につき、同工異曲の悲観論を唱えつづけています。

 戦争末期や敗戦直後の日本を体験した僕には、こうした状況はわが国特有の“社会的強迫観念”に思えます。そんなわけで、先週ある講演の席で僕はこの現実を指摘し、「…目下日本の未来が暗いと言うが、暗くても、まだ未来があるだけでも幸せだと考えたらどうか…」と訴えました。一瞬聴衆の間に戸惑いの雰囲気が拡がったのを感じた僕は声を高めました。

 「大戦末期の断末魔で米軍の本土進攻必至と思われた状況下“一億玉砕”というスローガンをまともに受容れていた日本人、また、“終戦の詔勅”で『死ななくても済んだ…』と一瞬安堵した途端(日本史上空前の)占領軍進駐後の事態の不安と恐怖に戦いた日本人、あの頃の日本人には“暗い未来”さえ無かった。あの頃に比べれば、今の日本は正に天国」と。

 国家の栄枯盛衰は世界史の常。日本の没落は政治家と役人には一大事でしょうが、それが不可避なら、一般人はむしろ、たった一回の人生を無能な国家によって毀損されることのないよう(職業選択にせよ、資産管理にせよ、生活設計にせよ)あらゆる現実的対策を講ずべき時です。この際最高の手本と励ましは、“グローバリズム”という時代的風潮の中逸早く世界各国に散って、あらゆる職業で活躍している日本人です。

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2010年6月22日

785 人生の最盛期まで、あと1年

 今日83歳の誕生日を迎える僕の心境は、独特なものがあります。というのは、今から40年以上も昔、かの中曽根康弘総理すら時に助言を求めたという四柱推命学の大家がわざわざ僕の人生を占ってくれた結果(=「野田さんの人生の最盛期はずばり84歳」)を秘かに信じつつ年を重ねてきた身にとって、待望の時期までわずか1年を残すだけとなったからです。

 その大家とは、実は僕の大学時代のゼミの後輩である中原伸之君。同君は東燃社長時代からエコノミストとして名を成し、小泉内閣の頃には日銀政策委員会審議委員としての発言が識者の間で注目され、著書『日銀はだれのものか』(中央公論社、2006年)は当時ビジネス書としてベストセラーとなりました。が、親しいわれわれの間では、一方で四柱推命学を究め、他方では空手を修行して今や(社)日本空手教会会長まで務める同君が、格別な敬意の的となっているのです。

 率直に言って、昔むかし中原君の占いを聞いた時、84歳という高齢には現実味を感じず、半分冗談とそれを受け止めたのですが、還暦を過ぎる頃からその占いは僕のこよなき励ましとなりはじめ、古希を過ぎてからは確固たる僕の自信となって“高齢化”そのものを楽しみにさえしてくれました。

 人は還暦を過ぎて“老い”の不安を感じ、古希を過ぎて“死”を怖れるようになるものですが、僕の経験では、傘寿を過ぎると人生は豁然と拓けます。何故か? もうれっきとした老人ですから“老い”の不安などありえませんし、(平均寿命を超えて“元がとれた”という安心感よりも)あの世で待つ友人の数がぐっと増え、“死”に対する一種の楽しみさえ強まるからです。僕も来年人生の最盛期を満喫した後は、勇んであの世へ旅立つ時を楽しみに、悠々と毎日を送るつもりです。

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2010年6月4日

784 平松さんの素晴らしい人生

 平松(守彦)さんが大分県知事を退任されてから、もう7年の歳月が過ぎました。城山三郎君の『官僚たちの夏』の中の登場人物そのままに、高い志と卓越した才能を併せ持った官僚として若い頃から広く各界に名をはせたとはいえ、平松さんの通産省勤務は(商工省時代を含めて)わずか25年間。そして、1年余りの国土庁審議官などを経て、75年には故郷大分県知事に乞われて副知事に就任、79年からは実に24年間知事として目覚しい業績を残されたことはご承知の通りです。

 と言うことは、知事を退任された時はすでに80歳近い年齢だったわけですから、過去の栄光を背に悠々自適の生活に入られても極めて自然だったのですが、平松さんは知事退任とともにNPO法人「大分一村一品国際交流推進協会」を起こされ、以後理事長として自ら先頭に立ち、“平松県政”の目玉であった“一村一品運動”の海外諸国での普及に八面六臂の活躍をされてきています。この間平松さんの高い活動成果に対しては、各国それぞれ多彩なかたちで謝意を表してきました。

 例えば中国政府は今年建国60年を迎えるにあたって、これまで同国に「最も影響を与えた外国人」10人を選びましたが、この中で物故者は実に8人。平松さんは貴重な現存者の1人として栄誉を受けたのです。昨日午後、日比谷公園内の「松本楼」で、今回の慶事を祝う「平松さんを囲む集い」が開かれました。発起人の一人として挨拶に立った僕は語りました。

 「・・・35年前平松さんが副知事として帰郷されるにあたり、氏を敬愛する財界人の多くは『平松守彦を総理にする会』を結成し、何時の日か氏が日本の指導者として東京に戻ってくることを念願しましたが、それが叶わなかったことを、その方々が現在ほど痛切に悔やんだ時期はなかったはず・・・」と。

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2010年5月28日

783 アンパンマンに期待すること

 先週後半は久しぶりに仙台に3日間滞在。講義、講演、ゴルフ、ファンクラブ…と忙しい日程でしたが、僕が一番燃えたのは、“アンパンマン”をめぐる一部市民との話し合いの場でした。実はつい先ごろまで、僕は“アンパンマン”が今や日本の幼児の間で圧倒的人気のキャラクターであることも、日本各地にはすでにその名を冠した子供向けの娯楽施設が幾つかつくられていることも、全く知らなかったのです…。

 ですから、三月中旬『仙台経済界』誌の伊藤社長が上京来訪され、「市がJR仙台駅東口に“アンパンマン”を誘致する件で一部地元住民の間に不安が広がっているので、何とか調整の役割を…」と切り出された時には、何がなんだか分からず、「…近く仙台へ行った時に関係者のお話をよく伺ってから…」といった要領を得ないご返事で、お別れした次第。

 だからこそ僕は、今回仙台へ行く前に、(横浜駅近くにあるという)「アンパンマンこどもミュージアム&モール」の見学に出かけました。ワイフからは、「…あなたが行くようなところではないですよ…」と呆れられましたが、幸い横浜の友人のおかげで、同社の幹部の方が館内をすべて案内してくださった上に、渡辺社長とも懇談することができました。この見学で僕が受けた何よりも大きな印象は、来場していた大勢の幼児たちがみんな、我を忘れて遊びに熱中している姿でした。

 最近巷で見かける子供たちの多くに元気がありません。多分、保育所・幼稚園・小学校…まで、“公”教育は、資格を持った先生方が、大人の目線で幼い子供たちを過剰に管理する結果でしょう。仙台駅東口に「アンパンマン」進出が実現しようとしまいと、僕は渡辺社長に対し同社に、“子供の目線”に立った画期的な幼児教育事業の展開を、切に期待します。

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2010年5月14日

782 最近の大学教育事情

 今週はまた大学教授に戻って、月・火・水・金曜日の16時20分〜17時50分、多摩大学で新入生に講義をしています。といっても、一連の講義ではなく、新入生を4班に分け、毎回同じ内容の話をするよう頼まれているので、僕にとっては、物足りないより気恥ずかしい思いに駆られ、同じ内容をいかに違った表現で話すかということを心がけている次第です。

 ことの起こりは昨年秋、教授たちとの懇談の席で、「本学でも最近は学生が、授業中私語したり居眠りしたりするのが当たり前で、困ったもの…」と聞き、「そりゃー、君たちに教師としてのリーダーシップが欠けているからだ…」と断じたところ、「それなら、ひとつ野田先生が“活”を入れに来てください」と特別講義を引き受けさせられたことに発します。

 当日、教室に入ってみると、時間なのに教室内はワイワイガヤガヤ、入室者がぞろぞろ…、しかも決まって、前の席より後ろへ後ろへと…。そこで僕はいきなり教壇に駆け上がり、マイクを握るや大声で「黙れ!」と先ず一喝。途端に教室はシーン…。横にいた助教授に「ドアを閉めろ! 遅れた奴は入れるな!」と命じるとともに、自己紹介とその日の特別講義の目的を簡潔に話し、学生に情熱を込めて訴えました。

 「両親が君たちのために毎年百万円の授業料を払っているのだぞ…」、「顧客として教師にも厳しく対せ!」、「まじめに授業を受けたくない奴は、退学しろ!」、「隅っこへ座りたがる奴は、人生でも隅っこへ座る。そんな奴がなぜ大学教育を受けにきたのか…」。効果は予想外。「入学以来、教室がこれほど緊張したことはなかった…」、「アルバイトをして、少しでも両親の負担を軽くしたい…」と圧倒的な好反応でした。  というわけで、目下新入生のしつけ教育担当教授を満喫中。

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2010年5月7日

781 イタリアを旅して

 バロック絵画の巨匠カラヴァッジョの没後400年を記念し、目下6月中旬までローマのスクデリア・デル・クイリナーレ美術館で、イタリアをはじめ欧米各国の美術館所蔵の彼の作品二十数点を集めた豪華な展覧会が開催中で、当日券入場者は毎日何時間も待たされる盛況です。「死ぬまでに現存する彼の全作品を鑑賞したい…」と念願してこれまで欧州旅行の折にはわざわざ僻遠の地にある教会にまで足を運ぶほどの僕のワイフが、この機会を見逃すはずはありません。僕も誘われたというより、命ぜられるままに同行することになりました。

 イタリア史の小森谷慶子さんの受講生たち恒例の修学旅行(今年は4月19日出発の「プーリア地方の小都市巡り」)終了後ローマに延泊し、先生も誘ってこの展覧会を鑑賞しようというのがワイフの計画で、出発前にインターネットで4月28日午後3時入場のティケットまで購入されていたのには参りましたが、僕の悩みは旅行中の毎日の古い教会や遺跡の丹念過ぎる見学より、昼食や夕食に予想される苦手な魚料理。ですから、例の火山の爆発で欧州の主要空港が軒並み閉鎖された事態には、何かホッとした気持ちさえ抱いたものです。

 出発の朝もマスコミは全欧州便の停止を報道しつづけており、中止を覚悟で家を出たのですが、なんと僕たちが予約していた成田発のアリタリアAZ785ローマ便は、火山爆発後最初の正規の日本発欧州便として、定刻に離陸しました。何たる“驚”運?…そんなわけで、一週間余りイタリア半島の踵の部分を旅しつつ、紺青のアドリア海に魅せられ、アルベルベッロの奇観を愛で、モンテサンタンジェロの聖域で身を清め…た後、ローマでは満員の観客に交じり掏りには注意しながらカラヴァッジョを鑑賞し、30日ご機嫌で帰国した次第です。

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2010年4月22日

780 『「平穏死」のすすめ』に同感

 嫌われた自民党政権がやっと下野し、民主党が国民の大きな期待を担って政権の座についてまだほんの7ヶ月ですが、今や「鳩山さん、あんたは本当に“屁”のような」とか「小沢は害悪である」といった大見出しが、毎週毎週臆面もなく市販の雑誌の巻頭を飾るのが常態化し、新内閣の驚くべき醜くさ無能さに呆れた日本人の多くは、今や国家のみならず、自らの人生の前途にさえ絶望気味。こうした世相を反映してか、このところ新聞や雑誌では、「弔い縁ありて」(朝日新聞夕刊連載欄「人・脈・記」)とか『平成「お葬式」入門』(「中央公論」5月号)のように、俄然“死”についての記事が目立ちます。

 ……と感じつづけてきた僕に、旧友の石飛幸三氏から自著『「平穏死」のすすめ』(講談社)が贈られてきました。氏は慶応大学医学部出身の輝かしい経歴を持つ外科医。東京都済生会中央病院副院長を定年退職された後、05年から都下のある特別養護老人ホームの配置医として勤務しておられますが、本書は一般病院での医師としての長い経験も持ちながら、特養ホームの医師なってみて初めて“老衰の果ての死”という生々しい現実と日々対することになった著者の偽らざる死生観。書名が端的に示すように本書は、現在の医療では暗黙の鉄則となっている“延命”措置が果たして終末期の老人にまで適用されるべきかを医師として問う、注目すべき作品です。

 死は人類発祥以来最も日常的現象でありながら、どこの国でも“忌”とされたため、それを宗教的に懇ろに弔うことで故人と惜別できたのです。が、前世紀以来、工業化に伴う経済生活の向上と医療の発達により人間の寿命は意味もなく延び、今や多くの高齢者にとっての“生”は、本人はもとより看取る人々にとっても“不条理な苦痛”となり果てました。

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2010年4月14日

779 「会社の寿命30年」説

 先週日曜、娘を誘って朝から東京ディズニーシー(TDS)に出かけ、いろいろなアトラクションを楽しみ、イクスピアリもぶらつき、シルク・ドゥ・ソレイユの「ZED」まで堪能して帰宅しました。オリエンタルランド社(OLC)が東京ディズニーランド(TDL)の大成功の延長線上にTDSを創設以来10年、今回急に行く気になったのは、同社の上西京一郎社長はじめ幹部に13日講話をせねばならなかったからです。

  事の起こりは、松岡正剛君。論壇では“知の巨人”と呼ばれて、近寄りがたい存在に思われていますが、実は僕は同君から“親父”と呼ばれる親しい仲。昨年社長に就任した上西氏は、今後の同社の将来を考えるべく、松岡君に頼んで同社の幹部研修会を開催していますが、その第3回のゲストとして僕が指名を受けました。講話の内容はとくに同社の経営と直接結びつく話でなくてもいいという依頼でしたが、その瞬間僕の頭に浮かんだアイディアが、僕をTDSに行かせたのです。

 かつて『日経ビジネス』誌が、1884〜1983までの100年間を10期に分け、総資産額を基準にトップ100社の変遷を辿った結果、そこに登場した約500社がこのランキングに留まれる期間は平均して2.5期、つまり日本の大企業の盛衰の周期はせいぜい20〜30年だと分かりました。OLCを今日の大企業にのし上げたTDLの開業からすでに27年たった同社は、歴史学的には今や節目の時期、これが基本的アイディアでした。

 OLCの主力事業TDLもTDSも米国のウォルト・ディズニー社(WDC)の発想と技術の産物で、OLCは毎年巨額な特許料を払いつづけます。幸いTDLはこれまでOLCのドル箱でありつづけましたが、果たして今後は? またTDSは新しいドル箱になりうるか? これが、僕の講話の内容でした。

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2010年3月30日

778 『一期一会』の原稿を書き終えて

 雑誌『経済界』に1月12日号から毎月2回僕が連載中の『一期一会』の最終回(5月4日号)の原稿を書き終え、ほっとしています。昨年秋依頼された時には、せいぜい4〜5回で完結すると思って引き受けたのですが、いざ書き始めてみると、大学卒業以来いろいろやってきたことが次々に思い出され、結局は予定回数の倍でも書ききれなかった思いです。

 『一期一会』は「時代の証言者が語る」という副題がついているように、財界の大先輩たちに過去の体験を語らせ、現役経営者の参考に供することを目的としたシリーズです。僕が執筆を依頼されたのは、大学人としては産業界の事情に最も通じているからとのこと。光栄ですが、僕が産業界の実情に通じているのは、企業経営を専門分野とする大学教授としてはごく当たり前で、そんなことが珍しいこと事態が、日本の大学の特異性を示すもの。宇宙物理学や生命科学、考古学や宗教学ならともかく、社会諸科学の中でもとくに政治学とか経営学などの分野では、実際に政治家とか経営者を経験した人たちがもっと多く、自らの経験を基にしながら古今の文献も渉猟して著作をものしてもらいたいものです。

 僕は起業家はもとより会社員の経験もありませんが、『一期一会』の中で記述したように、非常勤ながら幾つかの企業のプロジェクトに関わって各社の社員と一緒に仕事もし、また自ら大学やシンクタンクの創設責任者をつとめるとともに、設立後はその経営の任に当たってきました。この経験はささやかなものとはいえ、僕が学者として企業経営のことを書いたり喋ったりする場合の基礎的素養です。産業界の友人から「野田さんだけは、われわれの言葉で話のできる数少ない大学教授」と言われること、それが僕の一番の喜びです。

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2010年3月15日

777 いよいよ「HTBの陣」のドラ鳴る

 経営危機に当面して久しいHTB(ハウステンボス)の再建に関し、昨年末からHISの創業者澤田秀雄君の名前が頻繁にマスコミに出ています。関東住民にとってHTBは縁の薄い存在でしょうが、九州住民にとっては、敷地面積50万坪弱、投資規模2千億円を超すテーマパークの崩壊は一大事。だからこそ、昨年野村PFが現行更生計画案の支援者から手を引くことを発表して以来、地元の政・官・財界挙げて新しい再建策の推進者を懸命に求めてきたのですが、最後の望みを託され、本人もやる気を見せたのが澤田君だったのです。

 澤田君は孫、南部両君と並んで“ヴェンチャー三銃士”と呼ばれ、何れも僕とは30年来の旧知の仲。その澤田君からの要請でここ数ヶ月、僕は同君の相談相手としてHTBとの関係をなし崩しに深めさせられてきました。この一月ひさしぶりにHTBを訪れましたが、オランダの有名建築を忠実に模した本来の主要建物群のほか園内外、とくに園の周辺には新しい建物や施設が増えていたほか、何よりも樹木が予想外に大きく育って、少なくとも外観は開園時に比し魅力を増したように感じましたが、主要建物の老朽化(目につくのは内装、したがって目にはつきにくい外装や設備などはなお更…)と来場者の減少がもたらす園内の沈滞感が気になりました。

 澤田君の周辺では、リスクの大きさから、断念を望む人々が多くいたのは当然ですが、僕は一貫して「…もしやるなら、成功の基本条件を最大限整えること」を提言し、とくにデューデリジェンスは信頼できる業者に依頼し、「(客商売は、ハード・ソフト両面、とくにソフト面で)いい加減な状態で営業再開すれば、先行き致命的…」と主張し続けました。遂に賽は投げられ、いよいよ「HTBの陣」のドラが鳴りました。

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2010年3月7日

776 『GOETHE』4月号をご覧ください

 「日経朝刊のひと際目立った広告を見て、『GOETHE』4月号を買って読んだ…」という電話やメールをたくさん頂戴し、恐縮しました。同誌5月号に掲載される予定の僕と孫君との対談をお報せした前号で、僕のことを包括的に取り上げた4月号についてもお報せしておくべきだったと反省しています。  40歳前後のビジネスマンを読者対象とする同誌と僕とはこれまで全く無縁だったのですが、「読者が将来を考えた時…」という設問から、同誌編集部が「80歳を過ぎても滅茶苦茶元気な人は?」と各界のしかるべき人たちに聞いて回ったところ、何と僕の名前を挙げた人が圧倒的に多かったため、僕を今回のような特集の対象人物に選んだとのこと、光栄です。

 僕はこれまで、『文芸春秋』(「日本の顔」、92年5月号)、『AERA』(「現代の肖像」、02年8月5日号)、『エコノミスト』(「人間探検」、02年11月19日号)などで対象人物にされましたが、今回のように3号24ページの誌面でいろいろな角度からとりあげられるのは初めてで、孫たちが大きくなった時、“おじいちゃん”のことを知る絶好の材料だと喜んでいます。

 還暦前後には誰でも、老齢化とか死が近づく不安が心をよぎるものですが、80歳を過ぎればもうれっきとした老人ですから、“老齢化”の不安はなくなる上に、平均寿命を超えたという優越感とともに、仲の良かった友人に次々に先立たれてしまうため、彼らがあの世で両親らと共に心待ちしてくれているという、死へのある種の楽しみさえ生まれるものです。

 以上が、83歳間近の僕の偽らざる心境で、昔のどの時代にも劣らない忙しさの中で、人生で最も心安らかに日々を過ごしています。ですから、滅茶苦茶元気だという僕への評価は、僕の年頃の老人に対する若い方の嬉しい偏見に思えます。

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2010年2月23日

775 “気ごころ”が通じるということ

 世の中には、しょっちゅう会っていてもお互いとくに親しみを感じない人もいれば、逆に、久しぶりに会ったのにお互いひどく懐かしさを感じる人もいます。何故かについてうまい説明はできませんが、お互いに“気ごころ”が通じているかどうかで、その点では「去る者は日々に疎し」という諺は、“気ごころ”が通じている者同士には全く当てはまりません。

 先週金曜午後、幻冬舎の月刊誌『GOETHE』に頼まれて孫正義君と1時間余り対談しましたが、その冒頭僕は「…世の中では、君と僕とはしょっちゅう会ってるように思っている人が多いようだが、全くそんなことないよね。知り合ってから30年以上にはなるが、1年間に1度も会わなかった年の方が多いんじゃないの…」と言ってお互い大笑いしました。

 本当にそうです。昔初めて孫君が僕の赤坂オフィスに訪ねて来て、30分ほど話しただけで僕たちは“気ごころ”が通じてしまい、年齢も職業も…何から何まで全く違うのに、その後は会えばひどく懐かしく、先週も最初から最後まで乗りまくって、気がついたら予定時間がとうに過ぎていました。

 この対談は同誌5月号に掲載される予定ですから、ご興味があれば、お読みください。昨年末幻冬舎から「今の日本はひどく暗いが、むちゃくちゃ元気な年配者はいないか、と各界の人に聞きまくったところ、圧倒的に先生の名前が多かった…」のでと、同誌の何と4月〜6月号まで3回連続で僕を徹底取材したいという要請があり、面白いので引き受けた次第。

 なお、雑誌『経済界』の依頼で新年号から、僕の82年の人生の回顧録『一期一会』を寄稿中です。毎回4ページ分月2回はともかく、昔のことは多く忘れている上に、文章に合った写真を探すのには散々苦労し、時に後悔もしている次第。

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2010年2月16日

774 オリンピックに思うこと

 冬季オリンピック開幕。ここ当分はマスコミが、各国国民の“ナショナリズム”を煽ります。僕はそれが嫌ですが、かといって、オリンピック国際委員会の“商業主義”的産物、「参加することに意義がある」といった文句はなお嫌いです。

 人間誰も国家を選んで生まれてきたわけではありません。例外の人を除き、十歳前後で(世界地図などを見せられながら)自国を抽象的に認識させられた頃には、言葉・味・人間関係・風俗習慣…(日本人の場合は)皮膚や髪の毛の色まで識別して“ナショナリズム”が身につき、オリンピックなどでは、自国選手が勝てば熱狂し、負ければ落胆するのです。

 ところで、人間にとって国家とは何でしょう? 戦中を直に体験した最後の世代の一人として証言できますが、かつて日本人の多くは国家によって人生を滅茶苦茶にされながら国家のために尽くし、時に命まで捧げました。他方国家を忌避する人々は“反逆者”としてひどい目にあわされました。その意味で、“冷戦”を契機とする“グローバリゼーション”は、国家と冷静に対処できる人々にとっては、待望の福音です。

 今や世界の多くの国が、自国にとって望ましい外国人を積極的に迎え入れていますから、ここ十年、言葉や風俗の壁を乗り超えて外国に住み、いろいろな職業分野で活躍する心強い日本人の数は増える一方です。が、ただわが国の閉鎖主義は依然として変わりません。だいいち仮に開放主義に転じても、果たして今の日本は、好もしい外国人が進んで移り住み、大いに活躍できるような魅力を具備した国とは思えません。

 小沢問題に象徴される日本は、まともな国家でしょうか?今年83歳になる僕ですが、我慢が限界になれば、何時でも国と決別する意志を持ち、常にそのための準備も整えています。

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2010年2月3日

773 国際教養大学を見よ!

 「いまわが国で一番注目されている大学は?」という質問に答えられる日本人がほとんどいないことに、日本社会における大学の存在感の無さを感じます。ところで、大学関係者や大学に関心のある方々なら、多くは恐らく「国際教養大学」と答えるはずです。04年に秋田県の公立大学法人として創設された入学定員わずか150人の、しかもその名のごとく、受験生を最も集めにくいと言われる純粋“人文系”大学です。

 ところがこの大学は、最新の大学ランキングでは目下750余の日本の大学中就職率で1位、「小規模ながら評価できる」で(ICUに次ぎ)2位、「教育力が高い」で(上智大に次ぎ)14位、(以上「サンデー毎日」の大学ランキング」)。また「学長からの評価」で(同志社大に次ぎ)7位、「高校からの新設大の評価」で1位、「新設大学海外留学派遣」(単位認定)147人で(長崎外国大31人、立命館アジア太平洋大30人を抜き)1位、(以上「朝日新聞出版」2010版大学ランキング)です。

 僕は県立宮城大学長だった時代から数年間、寺田秋田県知事の要請でこの大学の創設準備委員となり、当時委員長(現在学長)の中島嶺雄君と一緒に「小さくても、限りなく個性的な大学」の創設を目ざして努力しましたから、この大学が最初の卒業生を世に送り出してわずか数年で上記のような教育成果を収めたことに、限りない喜びと誇りを感じています。先週火曜午後雪の秋田で同校の「トップ諮問会議」があり、僕は欠席の明石康委員長に代って議長をつとめ、「現在は公立大学法人として県の交付金に大きく依存している同大学を、近い将来どういう経営形態にしてより大きな発展を計るか」につき、各委員と熱く、実のある論議をしてきました。

 個性的戦略により見事な成果をあげた本大学にご注目を!

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2010年1月26日

772 渡辺謙と小沢一郎の違い

 今年の「(坂口)安吾賞」は昨年の瀬戸内寂聴さんに引きつづき渡辺謙氏が受賞者と決まり、去る19日ホテルニューオータニでの発表会では、僕は選考委員長として出席者の前で選考過程の報告かたがた所感を述べました。発表会が始まる前控え室で同氏と30分ほど歓談しましたが、これまでテレビなどを通して見てきた風貌から察せられたとおりの重厚かつ信頼できる人柄が十分感じとれました。最近作『沈まぬ太陽』を話題に僕が「…あれほどしつっこく繰り返された報復人事に(渡辺氏が演じた)恩地はよく我慢しましたね。僕だったら2〜3回で辞表を叩きつけるのに…」と言うと、氏は物静かに微笑みながら、「僕だったら1回で辞めていますよ…」と。

 その4日後、全日本国民が注目した“小沢聴取”が行われ、4時間に及んだ聴取が終わるや否や同氏はものものしく記者会見を開いて疑惑関与を傲然と否定。僕は昔同氏と会ったことがありますが、その第一印象は渡辺謙氏とは対照的で、傲慢かつ小心な人柄を感じました。同氏も年老いましたが、テレビや写真で見る限りますます“独裁者”的面構えになったようで、“民主”党の諸先生はよくもあの親分に“羊の群れ”のごとく黙々と従うものだと、寒心します。それにしても、全マスコミが今回の“小沢批判”のように足並みを揃えたことはあったでしょうか! 民主党の先生方はそれが気にくわぬか、言論規制の必要を唱えはじめましたが、この愚行は民主党という幼稚な政党の自殺行為となることは必至です。

 かといって、“権力腐敗の象徴”自民党の復帰は真っ平となると、「日本民主主義の帰趨は如何?」、僕には興味津津…。

◆Rapport先号に関し親しい浦上浩君から、「小沢氏は昔の“慶応ボーイ”」という電話のご注意…。えっと驚きつつ、謹んで訂正いたします。

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2010年1月20日

771 “ヤクザ国家”日本の未来は?

 「おい石川、腹すえろ。検察と戦うんだ。負けてられねえ…」、「秘書になるってことは歯車になること…。先生守れたら本望…」。まさにヤクザのやりとり。“先生”とは昨年末の総選挙で圧勝し政権を握った民主党の幹事長、石川とは元秘書の現職国会議員。しかも親分・子分とも日本の一流大学“早稲田”出身となると、良識ある日本人の顔は曇るでしょう。

 16日の朝刊各紙は一斉に「石川逮捕」を大々的に報じました。丁度地方講演に出かけていた僕はホテルの食堂で主要紙朝刊に目を通しましたが、「毎日」の上記の“三面記事”が一番印象的でした。先日経営者を対象に東京で講演した折、何時もながら本論から外れて“小沢問題”に触れ、「…秘書すら逮捕されないようなら、“鳩山傀儡政権”の実力者は検察のみかやがて司法にまで圧力を加え、日本は戦前に経験したような一党独裁国家になりかねない…」と話したばかりでした。

 今のところ戦前と違うのは、政治権力がまだ“言論の自由”まで押さえきれてないことですが、それもどうでしょう。かつて僕が宮城大学長時代、東北各地に招かれて講演の後に名士と会食の席などで話題が小沢氏の所業に及ぶと、どういうわけか相手は途端に小声になったものです。また先日、小沢氏は自らの権力を誇示するかのごとく“お付”600人を引き連れて現代版“遣唐使”の中国訪問を実行しましたが、600人中160人余は現職の国会議員で、彼らはたとえ内心では納得できない小沢氏の言動にも、今は「唇寒し」の連中ばかりです。

 日本国民は“万年与党”の病弊が末期症状に達した時点でやっと自民党を拒否しましたが、期待した民主党が、よりによって、政治権力の最も醜い体質を完全に身につけた人物によって牛耳られるとは…、果たして“ヤクザ国家”の未来は?

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2010年1月1日

年 賀 新年、おめでとうございます

 マスコミ報道に依るかぎり、政治も経済も不完全燃焼のまま年が明ける感じですが、これまで自分の信念と考えにしたがって生きてきた僕にとっては、例年どおり「国がどうなろうと、自分にとっては素晴らしい年!」がモットー。

 今年も、目一杯生きようという意欲満々です。とくに、戦前・戦中・戦後の日本を行き抜いた世代の一人としては、昔では想像もつかなかった恵まれた現実に対し「ありがたさ」を忘れぬよう、常に自分に言い聞かせつづけるつもりです。

 皆様にとっても「国がどうなろうと、今年が素晴らしい年」であることを心から信じ、新年のご挨拶とさせていただきます。

 2010年 元旦

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